訪問者数

アメリカ 09-10


*ホスト・ファミリー (第一ホストファミリー)
七人家族(犬と猫を飼っている)、そのうち上の二人はすでに結婚していて、家には住んでいなかった。ホストマザーは小学校のボランティアの先生です。ホストファザーは歯科医の方です。家族内はとても仲がよく、明るく、絵に描いたようなとてもいい家族でした。ホストファザーが歯科医の方だったので、経済的にもどちらかというと、裕福な家庭でした。週末や大きな休みになると、湖の近くにある、別荘みたいな家にも四度ほど連れて行ってくれました。それと私がサッカーや陸上の試合があるというと、都合をつけて見にも着てくれました。

*学校生活
学校生活は日本の高校とは異なり、授業科目をすべて選択できることや、部活動が季節ごとにかわりったり、教室が各先生が教室を持っていいて、生徒が毎授業移動したりと日本と大きく違いがありました。初めの三ヶ月の授業は先生が話している内容や配られたプリントの内容すらも分かりませんでした。それからは日に日に分かる内容や、発言なども増えてきました。友達も初めはサッカー部の友達だけだったのが、帰るときには大勢の友達ができました。その友達には勉強や英語の上達、私の留学の成功を手助けしてくれました。週末には、アメリカンフットボールやバスケットボールの試合などの観戦に行き、友人と話をしたり、音楽に合わせてチームを応援したりと、日本とは一風変わった習慣でアメリカの文化を一番感じました。

*ホストロータリークラブ
毎週水曜日の正午に例会があり、カウンセラーの方がいつも学校まで迎えに来ていただいていました。例会では毎回一週間の報告で簡単な卓話をし、それも私の英語力の向上にも人前で話し練習にもなりました。毎月$80いただいていて、昼食代はホストマザーがロータリアンなので払ってくれていました。ホストクラブの数名の方は私をいろいろなところに連れて行ってくださいました。大学のバスケットボールの試合やアメリカンフットボールの試合、ワシントンDC67日の旅行に連れて行ってくれたかたもいました。それと二回ほどパワーポイントと使って、30分間の卓話もしました。

*町の様子
私の町は緑が多く、春先には鹿の親子が見られるほどでした。治安は田舎町ということもあって、とてもよい状態でした。

*アメリカに向かう派遣生へのアドバイス
1、なるべく母国語ではなく、その現地の言葉をなるべく話すようにすればより現地の言葉つまり、現地の文化を学ぶことになります。SKEPなどの安価で簡単に家族とコミュニケーションを取れる便利な道具もありますが、なるべくというか使わないようにするのがいいと思います。使えばどんどん使うようになってしまって、ホームシックにかかりやすくなると思います。でも、両親への連絡はE-MAILや手紙などなるべく言葉を発しない方法をお勧めします。

2、ロータリーの行事に参加するようにする。特に地区のカンファレンスや旅行には参加した方がいいと思います。カンファレンスや旅行には他の留学生が来ているので、留学中の悩みや不安などを共感でき、共感してくると思います。それに世界に友達を作ることができ、それに派遣された国だけではなく世界の文化を知ることができると思います。


3、自分らしさを忘れずに留学先というとても厳しい状況でがんばりすぎると体調を崩したり、家に帰りたくなったりすると思うので、何をするにしても自分の心と相談しながら生活していくといいとおもいます。でも、がんばる時には精一杯がんばらなければ留学に行った意味がないのと同時に、あなたの留学を支えてくれた人に失礼だと私は考えます。

*将来の希望、夢
私はこの留学を通して、いろいろな世界がこの地球の上にあるのだと気づきました。そしてその国々の文化を知ることの大切さ、楽しさを知りました。将来は世界を舞台にしごとをしていきたいと思う様になり、貿易の仕事に興味を持ちました。それは貿易の仕事が世界の異文化交流を根本とした仕事だと思うからです。なぜなら、相手の文化つまり品物の価値を理解するにはそれをよく知らなければならないと思います。それに貿易を円滑にこなすには人との繋がりも必要でその信頼関係の中で行われるものだと思います。私にとっては人との出会い、そして友情を築くことが一番幸せです。この留学はそのことを気づかせてくれました。

*感想
この留学は単に一年間母国を離れ、異国の地で生活するだけではなく、その後もホストファミリーをはじめとする現地の方々、留学をサポートしてくれたスポンサークラブの方などたくさんの方々とのつながりを築き、その後も続いていける関係を作る事が本質だと思います。この一年間で私はどれだけの数の人と出会い、そのつながりを築けたのかはわかりませんが、きっとこの留学に参加しなかったよりかは多くの方と会えたと思います。そして帰ってきた時に行く前にもっと英語の勉強をしていればよかったのかと思いました

台湾 09-10


*:ホストファミリー
  ・第一ホスト  
第一ホストの家では五ヶ月間お世話になりました。家にはホストパパ、ママがいました。ホストシスターはアメリカに留学中でした。台湾では子供を留学させる場合必ずその家族は必ずホストファミリーにならなければならないのです。ホストパパは法律系のお仕事を、ママは公務員をしていました。ふたりともとても忙しい人でした。でも夜ご飯は毎日3人で一緒に食べました。そのときに、学校で起きたことや、これからのロータリーの行事などについてたくさんおしゃべりをしました。第一ホストとはたくさん喧嘩もしました。日本にいたころは、まさか自分はホストファミリーと喧嘩なんかしないだろうと思っていたので、自分でもびっくりです。家族との関係がぎくしゃくしていた時期もありました。でもそういう時こそ、家族に対して感謝の気持ちを忘れてはならないのだと思いました。台湾にいる間の一年間、ホストチェンジをした後もパパとママにはすごくお世話になりました。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
・第二ホスト
第二ホストの家では三ヶ月半お世話になりました。家にはホストパパ、ママ、ホストブラザーがいました。もうひとりのホストブラザーはアメリカに留学中でした。パパとママは車関係の仕事をしていて、ロータリアンでした。ホストブラザーは高校生です。第二ホストとはよく休みの日になると朝ご飯を一緒に食べに行きました。台湾ではよく朝食や夕食を外で済ませる人が多いのです。安い!早い!おいしい!というのが理由らしいです。第二ホストの家で台湾の旧正月を過ごしました。パパもママも仕事が休みだったのでみんなでカボチャなどの種を食べながら映画を見たり、あとはテレビゲームをやったり、親せきの家にいったりして過ごしました。家にランニングマシーンがあったので、ママと一緒にダイエットに励んだりもしました。毎日たのしかったです。
   ・第三ホスト
第三ホストファミリーの家では二カ月半お世話になりました。家はパパ、ママ、おばあちゃん、おじいちゃん、ホストブラザー、シスター3人、お手伝いさん、犬3匹、ウサギ一羽いる大家族でした。ロータリアンです。第三ホストは二カ月半という短い期間でしたが、すごく充実した毎日を過ごすことが出来ました。ママは銀行員でした。パパは、何度も聞いたのですけど、結局仕事を教えてくれませんでした。夜はご飯を食べた後のテレビを見ながらのおしゃべりがすごく楽しかったです。第一、第二ホストにいた時は、自分の部屋にいて過ごしたときが結構あったのですが、第三ホストでは部屋にいる時間よりリビングにいる時間のほうが断然多かったです。夜一時過ぎまで家族とずっとおしゃべりなんてことも少なくありませんでした。家族には、猫背を直しなさい!とか、ご飯粒は残すな!とか、あんた部屋がきたないから結婚できないぞ!なんて日本の家族に言われるようなこともたくさん言われました。本当に、本当の家族のようでした。

1年間私はこの三つのホストファミリーと一緒に過ごすことができて本当によかったと思っています。今度機会があったらこの三つの家に帰ろうとおもいます。


*:学校生活について
私は國立新店高中というところで学校生活をおくりました。台湾の学校は日本と似ているようで全然違います。まずは時間です。朝は7時30分に始まります。そして学校が終わるのが5時10分です。毎日8時間授業でした。制服は女の子もなかには違う子もいますが多くの子がみんなズボンをはきます。行ったばかりのころすごくびっくりしたのを覚えています。そして、台湾の学校について一番おもしろい、興味深いと思うことは、毎日お昼にお昼寝の時間があるということです。毎日30分間あります。このときに廊下を歩いていたりすると、教官という怖い人たちから注意を受けます。毎日教官の怒鳴り声が廊下から聞こえました。授業は先生に出たい授業だけ出ればいいと言われたので、よく職員室のようなところに行き、中国語の授業を受けたり、先生たちやほかの2人の交換学生とおしゃべりをしたりしました。台湾の子たちはみんな明るく、優しくとても堂々としているという印象を受けました。そして日本が大好きな子も多く、よく友達に日本語を教えたりもしました。日本について知りたい!勉強したい!という姿がなによりもうれしかったです。そして台湾について、中国語について何も知らない私に一からとことん教えてくれたクラスの子たちには本当にありがとうの気持ちでいっぱいです。新店高中で出会った生徒、先生は私の大切な仲間、宝物です。


*:ホストロータリークラブの様子や貴方への対応など
私のホストクラブは長安ロータリークラブでした。例会には毎月参加する必要はないと言われたのであまり会う機会がありませんでした。ですが、参加したときには毎回必ず中国語でスピーチをしました。スピーチをやるたびに、うまくなったね、などこのような言葉をいただきとてもうれしかったです。私は自分のホストクラブの例会に参加するのは、他のひとより少なかったのですが、ホストファミリーの所属しているクラブの例会には毎月参加していました。たくさんのロータリーの方々と交流することができ、とてもいい経験になりました。


*:国や町の様子、社会環境あるいは経済的状況など
台湾はとても素晴らしい国です。人は親切、食べ物は安くておいしい、台北を離れるとたくさんの自然でいっぱいです。しかしこのような幸せな国、台湾にもたくさんの問題があると私は感じました。まずはバイクです。街中いたるところで、たくさんのバイクが走っています。すごくバイクが走っているせいで、街の空気はかなり汚染されています。だからマスクを売っているお店もたくさんあるのです。夜になっても日本に比べ見える星の数は少ないです。空気汚染、これは台湾、台北のこれからの重要な課題になってくると思います。そしてもうひとつ、経済格差です。街にはたくさんのホームレスがいます。そのたくさんのホームレスたちは人が多い所に集まり、人々からお金をもらおうとしているのです。わざと包帯をぐるぐる巻いて怪我をしているように見せかけたり、頭を地面に何度も打ち付けてお金を乞いたりしています。台湾ではこれはもう日常の光景になっており、とても悲しく感じます。


*:これから台湾へ行く後輩へ3つの助言
一つ目、まず食事に気をつけてください。私は大丈夫だったのですが、おなかを壊す人がかなりいます。正露丸など持っていくとよいと思います。二つ目、これは国が関係ないと思いますけど、自分の想った事は口に出して言うことが大切です。言わなきゃ伝わりません。是非笑顔でありがとうと一言言ってみてください。なにかが変わるかもしれませんよ!三つ目、楽しむこと!それだけです。台湾で過ごす一年間はあっと言う間に終わってしまいます。たくさんのことに挑戦し、勉強し、あそんできてください。一年後には日本に帰りたくない!!と思うようになっているはずですよ!


*:貴方の将来の希望、夢について
将来の夢は具体的にはまだ決まっていません。たくさんのものに魅力を感じます。台湾で学んだことを活かしつつ、これからの生活のなかで見つけられたらなと思います。


*:感想
私は台湾に留学することができて本当によかったです。まだ自分の行く国が決まる前、実は、台湾は一番行きたくない国でした。地理的にも、人間的にも日本、日本人ととても近いと感じたからです。でも実際台湾に行ってみると、そんなことは全く感じさせられませんでした。顔の感じだって全然違います。このロータリーを通しての留学がなければ、私は一生台湾についてなんにも知らないまま終わるところでした。本当に人生の九割くらいを損するところでした。台湾で出会った仲間はみんな私にとってとてもかけがえのない存在です。人間一人ではなにもできませんし、得られるものだって少ないと思います。私の台湾留学が成功したのは、周りにいたたくさんの人々のサポートがあったからです。そして私に留学という一つの活動を通して、台湾人のあたたかさ、また日本で私を応援してくれていた家族のありがたさを教えてくれたロータリーにはとても感謝しています。台湾で学んだ‘感謝の気持ち’を忘れずこれからの日々を過ごしていきたいと思います。ありがとうございました。

謝謝台灣!謝謝扶輪社!

ドイツ 09-10



ホストファミリー
・第一ホスト 母、姉(和歌山に留学中)弟
 ホストお母さんは子供の訪問看護の仕事をしていて、お父さんはいませんでした。ホスト弟は14歳でした。ホストお姉さんは私と同じ時期に和歌山に留学していて、私は彼女の通っていたクラスに通いました。その家族は犬を飼っていて毎日散歩に行くのは楽しかったです。私が来て最初の3日くらいは休みを取っていてくれていたので、いろいろ話すことができたのですがそれ以外は仕事が忙しくてあまり家にいませんでした。弟はシャイでコミュニケーションをとるのに苦労しました。9月から次の年の1月まで滞在する予定だったのですが、11月頃からお母さんに新しい恋人ができ、お母さんは家にいることが少なくなりました。夜遅くに彼が来てうるさいことで眠れなかったり、料理を作ってくれないのは大変でした。弟は部屋にゲームもテレビも持っているので全然部屋から出てこないことも多かったです。このままではドイツ語も上達しないし、ホームステイをしている意味がないと思ったので、12月の初めにホストチェンジをすることに決めました。

・第二ホスト 父、母、兄
 二つ目の家族のところには2つ目に行く予定だった家族に移るまでの1週間だけ滞在しました。お父さんはホストロータリークラブの方でした。ホストブラザーは1つ年上で去年インドに行っていました。その家族はもと貴族で趣味で狩りをしていました。私も2回一緒に行きました。冬休みはルーマニアからの大学生も一緒に北海の島に行きました。
 お母さんは厳しいことを言う人でしたが、私が変わらなくてはいけないと思う気持ちにさせてくれた人でした。
・第三ホスト、父、母、弟
 三つ目の家族には12月の中旬から3月末まで滞在しました。35歳のお父さん、32歳のお母さん、2歳になる赤ちゃんの若い家族でした。お父さんはロータリアンでした。私は兄弟も親戚に小さい子もいないので赤ちゃんが家族にいるのはとても新鮮でした。その子も言葉を覚えているところだったのでとても面白かったです。家にも子供向けの絵本があったのでそれを借りて読むのも楽しみでした。泊まっていた家はとても大きくて4階建て+地下、車が4台入る車庫とエレベーター、3階にプールがありました。私の部屋はトイレ、シャワー付きで私の家のリビングより広くとてもショックを受けました。一緒に有名な教会を見に行ったり、キリスト教の洗礼も見に行かせてくれました。おいしいものを食べることが好きな家族で週1回はレストランに行っていました。私はそこで初めてドイツ料理をこの家族と初めて食べました。とてもうれしかったのを憶えています。一度私が泳げないことを話したら、誕生日に水泳コースを予約してくれて何ヶ月か経って泳げるようになりました。


・第四ホストファミリー 父、妹
 最後のホストファミリーのところには4月の初めから8月2日まで滞在しました。お父さんはロータリアンでした。妹は14歳で時々難しいこともありましたが、一緒によく料理をしました。お父さんはいつもたくさん私と話してくれたので、そこでまたドイツ語を話せるようになりました。友達と少し遠いところに遊びに行くときは車を出してくれたり、美術館に連れて行ってくれたりもしました。父子家庭でしたが、細やかな対応をしてくれました。バーベキューのある日は食材の下ごしらえをして持たせてくれたり、スピーチのある前の日は現行の添削をしてくれました。私がドイツを出る日に私の町の本を持たせてくれました。とても感謝しています。

学校生活について
私は10歳から19歳の子までが行くギムナジウムに通っていました。学校は州で1番か2番に早い7時20分に始まり、午前の授業が終わるのが12時30分でした。午後の授業は週2,3回ありました。私は11年生のクラスに通っていました。私が入ったクラスはラテン語クラスで語学が好きな子が集まるので、26人中男の子が一人でした。授業はドイツ語、英語、フランス語、ラテン語、政治経済、倫理、宗教、生物、物理、化学、数学、体育、美術、音楽がありました。日本の学校の授業と大きく違っていたのは、どの授業も先生と生徒の話し合いで進んでいくことでした。プレゼンテーションもよくありました。私はもちろん全部はわかりませんでしたが、それでも身近なテーマはとても面白かったです。語学の授業、とくに英語はいつも「話す」ことが中心でした。

私が初めて学校に行った時先生の言っていることが全く分からなかったのですが、隣の子が私のノートに必要なことを書いて、「お母さんに見せてね。」と言って渡してくれました。とてもうれしかったです。地理の先生は日本のことをテーマにしてくれたり、私用に先生が簡単に書いたみんなと同じテキストをくれました。

日本の学校のように体育祭や文化祭のような行事はほぼありませんでした。ですから友達と本当に仲良くなるまでには時間がかかりました。テストやほかの用事がある日は遊べないので、そういう時は留学生の友達や、ドイツ語学校で知り合った友達と会いました。でも5月に私のクラスでローマにラテン語の勉強をかねて行きました。私はラテン語の授業だけは出席しなくていいことになっていたので、ラテン語は取っていなかったのですがローマには行きました。とてもいい思い出です。

ホストロータリークラブ
ドイツに着いたときから親身に対応してくれました。私がホストチェンジを希望した時にはすぐに対応してくれただけではなく「気がつかなくてごめんね。」とまでいってくれました。ロータリーの例会以外でも夜ごはんに招待してくれたり旅行にも行かせてもらいました。ついて3ヶ月間ドイツ語学校に通わせてくれました。とても楽しかったので、つずけて行きたいと言ったところ、残りの滞在期間中の費用をすべて払ってくれました。私はそこでいろいろな国の大学生、研究者、会社員の人と知り合い今では大切な友達になりました。出国する時に滞在書類の問題で予定通りに帰れなかった時もロータリーの方が協力してくれました。

国や町の様子、社会環境・経済的環境
ドイツには外国人が多いです。社会環境・経済的環境も様々です。日本では見ない物乞いをしている人もいます。でもほかのヨーロッパの国と比べるととても少ないと思います。
日本と違って一つの都市に人口が集中することがないので、小さい町はゆったりとしています。どの町にも広場があり人が多く集まります。私の行った年はワールドカップのあった年でたくさんの町の広場でパブリックビューイングができていました。ドイツでは大変な騒ぎでした。大きな町ではもちろん周りに注意が必要ですが、ほかのヨーロッパの都市に比べると治安はとてもいいということを、ユーロツアーに行ったときに感じました。

ドイツに行くみんなさんに
1、「ドイツで大事なことはなんでも言葉にする」ことだと思います。ほかのヨーロッパの国でもそうだと思いますが、日本のように思っていることを感じ取ってもらうということはできません。ただ言葉にして言ったことはまじめに取り合ってもらえます。

 2、「わからないことは何でも聞くこと」もとても大事なことだと思います。知らないことを相手に聞くと絶対に面倒くさがらずに、子供扱いもせずに喜んで教えてくれます。

 3、「日曜日を有効に使うこと」はドイツではかなり重要だと思います。ドイツでは日曜日にお店はほぼ全部閉まっています。私は最初何をしていいのかわからず、日曜日をだらだらと過ごしていました。ただ途中から美術や建築に興味が出たので日曜日は美術館や教会を見に行くことに決めました。美術館は日曜でも開いています。しかも高校生は無料かとても安い値段で入れます。日本ではなかなか行く機会が少ないと思うので行ってみてはどうでしょうか。

行く国と関係なく言えるのは行く前にちゃんと日本のことを勉強することです。私は自分がドイツの文化や言葉を勉強することしか考えていなかったので、日本の人口が何人かも知りませんでした。ただたくさんの人が同じ質問をしてくるので自分で勉強しました。料理、日本の学校、宗教などもよく聞かれるテーマです。
将来の夢・希望
ドイツに行ってからいろいろなことに興味が出てきたのでまだ一つには決まっていません。いろいろな国の人と友達になることの楽しさを知ったので、世界中を回れる仕事がしたいです。留学に行く前から発展途上国を支援する仕事に興味があったのでJICAWHOUNICEFといった団体やジャーナリストにも興味があります。ドイツに行ってから美術や建築に興味が出たのでその勉強もしてみたいです。映画が好きなので映画に携わる仕事もしてみたいです。大学生になってチャンスを探して、専門の分野でもう一度留学をしたいです。

1年間の感想
1年間留学してよかったことはいろいろな国の人と知り合えたことです。私はその中から大事なことをたくさん学びました。例えば私がドイツで仲の良かった友達の一人にルーマニア人の女の子がいます。その子は私に難しい環境でも強くいることを教えてくれました。今まで私はルーマニアがどこにあるのかも知りませんでした。でも今はルーマニアという国が近くに感じますし、いつか行こうと思っています。留学に行く前は初めて会った人と話すのが苦手で、自分の意見を言うのが苦手でしたが、ドイツに行ってそれが克服できたと思います。それはたくさん失敗をして、そこから考える機会があったからだと思います。後悔することももちろんありますけど、もし私がこの1年を日本の高校で過ごしていたら楽しいだけだったかもしれませんが、何も成長することはなかったと思います。
私はいま世界中のいろいろな国に友達がいるので近いうちに会いに行けたらいいなと思っています。

最後にこのすばらしい機会を与えてくださった越谷北ロータリークラブの皆様、青少年交換委員の皆様、アドバイスを下さったROTEXの皆様本当にありがとうございました。

デンマーク 09-10

まず、デンマークは経済的にも、住む人の心もとても豊かな国です。税金がとても高いのですが(消費税はなんと25%!) その分教育施設や福祉施設が充実しています。
私は南デンマークにある Toender(トゥンナー)という街に住んでいました。
人口8,000人の小さな街でしたが、スーパーマーケットや洋服屋などが充実しており、買い物をするのに困ることはありませんでした。他にも音楽パブなどがあり、週末にはそこは人々の憩いの場となっていました。人が優しく、平和で、私がデンマークで一番好きな街です。


私の第一ホストファミリーの父は60歳を越えていましたが、なんとレストランの経営者でした。なので夕飯は毎日レストランでいただいていました。ここで最初の デンマークでの生活というものを学びました。両親とも仕事で忙しそうでしたので、寝る時間はとにかく早かったです。
ホストシスターとブラザーは二人とも もう自立して都会に住んでいたのであまり会うことはありませんでした。


第二ファミリーに移ったのは11月の半ば頃でした。両親ともに若い家族で、クリスマスは家族全員で過ごしました。そして、ここで初めて、家にいる2つ上のホストシスターと暮らすことを経験しました。朝は一緒に登校し、12月はクリスマスケーキをつくり、一緒に雪合戦などもしました。
同時にこのファミリーは 私にとって一番コミュニケーションが難しいファミリーでもあって、途中で何度も泣きながら話し合いをしたのを覚えています。
デンマーク語の実力も、ホストシスターに助けてもらいここで伸ばしました。


そして3月に第三ファミリーに移った頃にはだいぶデンマーク語が話せるようになっていたので、コミュニケーションはそんなに難しくはなかったです。そして、うれしいことに、今度はKristianという人生初の弟が出来ました。この家族のホストマザーは太陽のような人で、いつも家族全体を元気づけてくれていました。


3つのホストファミリーとは今でもメールやFacebookで連絡を取り合っています。
どの家族も私に良くしてくださったので、とても幸せでした。


デンマークの学生は基本的に平日はたくさん強して休日には映画やパーティにでかけます。学校は毎朝8時から始まり、下校時間も日本よりも早めでした。
授業の合間にはみんな次の授業のための課題をコンピューターに打ち込んだり梨、りんごなどを皮ごとまるかじりしたりするのが日課です。英語の授業ではよくディスカッションなどをし、レベルもかなり高かったと思います。
ところで私の行っていた学校はとても自由な校風でした。当然制服はなく、バイクや車での登校が認められていました。真っ赤な髪の毛の生徒やピアスをいくつもあけている生徒などもいましたが、彼らは勉強には驚くほどひたむきでした。見た目で判断はできないものなのだと思い、感心したのを覚えています。


月に1回は必ず パーティーがあり学校がディスコとなりました。私は、そこで踊っている人達を見て、やはり日本人よりもデンマーク人の学生は大人っぽいと感じました。


私は週1回の例会を毎回楽しみにしていました。会場は第一ホストファミリーのレストランで、たくさんの大人の方とお話が出来るからです。デンマークでは、言葉が多少わからなくても、知らない人ばかりでも すぐに席を外さない、つまり逃げずに周りの人としっかりコミュニケーションをするということがとても重要視されています。
ロータリークラブの例会はそういったことを学ぶのにとても良い場でした。私は例会でのアクティビティにもたくさん参加しました。絶滅危惧種の魚を見に行ったり、天候の変化を見たり、ドイツと共同の風車を作るプロジェクトを発表したりするなど、主に環境問題に対する取り組みが多かったように思います。環境先進国と言われるだけありますね。


これからデンマークへ行く人がいたら、この3つのことを覚えていていてほしいです。
デンマーク語がたとえ上手でなくても人と積極的に話すこと。必ず上達します。
色んなことに興味をもち、初めてのことであろうと挑戦すること。デンマークでは色々なアクティビティを体験できます。私はデンマーク語講座、ダンス、マーチングバンド、ファーストエイド、音楽学校でフルートのレッスンなどを受けました。
悩みがあったら迷わず人に相談してみること。優しい人が多いので。


私も、これから留学に行く後輩をサポートしたいと思います。


デンマークだけで話されている「デンマーク語」という独自の公用語を学ぶことによって、「意思疎通をはかる相手の言葉や文化を理解することはとても重要だ」と私はこの1年間を通して学びました。将来的には 様々な言語を学んでたくさんの人のコミュニケーションの手助けができるようになりたいと思っております。


デンマークに行かせていただいて本当によかったです。
この経験は私の人生の中で一番良かったことだと、今なら確信を持って言うことができます。ロータリークラブの皆様、ありがとうございました

フィンランド

*ホストファミリー*

第一ホスト

最初のホストファミリーはとても仲の良い家族でした。私が着いた日にもHeikkiの兄弟などが集まってパーティをしてくれました。湖のすぐそばの、とても立派なお家に住んでいて、夏の終わりから秋にかけては、庭のベリーをよく摘んでいました。休日には釣りやピクニックに行き、秋休みにはエストニアへの家族旅行にも一緒に連れて行ってもらいました。まだフィンランド語が全然話せない私に、Heikkiは文法や、フィンランドの歴史をたくさん教えてくれました。Sainiにはフィンランドでよく食べられている、Korvapuusti(コルバプースティ)というシナモンロールや、リンゴタルトなど、いろんなお菓子の作り方を教わりました。Aatuはとてもシャイで最初はあまり口をきいてくれませんでしたが、段々慣れてくるうちにクッションを投げたり、ちょっかいを出すようになり、本当の兄弟のように慕ってくれました。

第二ホスト

第二ホストファミリーへはロータリーのラップランド旅行のあと、12月の半ばに引っ越しました。留学中のSiniとReijaとは手紙やメールのやり取りをしていて、多少の交流がありました。LateとArjaは10月にあった、私の誕生日パーティにも参加してくれました。ラップランドの旅行の時も、冬靴を貸してくれたり、引っ越す前からお世話になっていました。しかし、このホストの家は第一ホストの家から遠く、学校からもとても離れてしまいました。LateもArjaも帰りが遅く、ご飯がない日がほとんどで、衛生的にもあまりいい環境ではなくて、辛い日が続いてしまいました。1ヵ月間お世話になって、別のホストに替わることになりました。

第三ホスト

この家族には特にお世話になりました。1月15日から7月15日まで丸々半年間、äitiとはまるで本当の親子のような関係を築くことができました。フィンランドでは、年上の人でも親しみを込めて名前で呼ぶ風習があると言われたので、先のホストファミリーことは名前で呼んでいましたが、Ailaのことだけは、フィンランド語でお母さんという意味のäitiと呼んでいました。年齢は私のおばあちゃんでもおかしくない年ですが、とにかく若くて、2人でオリエンタルダンス(ベリーダンス)を習ったりもしました。時にはけんかをすることもありました。Penaはいつも無口で少し怖い印象を持っていましたが、第二ホストのことで私が思い悩んでいると聞いて、最初に「由妃を助けに行け」と、いったのはPenaだったと、あとからäitiに聞きました。2人とも、本当に私をかわいがってくれました。

* 学校生活*

フィンランドでの生活で一番不安だったのは、やはり友達のことでした。でも初日からたくさんのクラスメイトの女の子が声をかけてくれて、その日からTessaという子と大親友になりました。ペタヤベシ高校は中学と同じ建物で、生徒が中高あわせても300人ほどしかいない、とても小さな学校です。町の中心部に位置していて、同じ敷地内には図書館、ホールなどもあり、午後からは一般の人もよく来ていました。また、すぐとなりには専門学校があり、お昼になると食堂に専門学校の人たちも来ていました。学校の授業は選択制で、初めのうちはTessaと同じものを取るようにしていました。特に興味のあった授業は写真とドラマの授業でした。写真の授業ではみんなと外へ写真を撮りに出かけたり、写真集を用いて討論したりするのが主でしたが、5、6学期には写真の現像を自分ですることにも挑戦しました。ドラマの授業では『不思議の国のアリス』の劇をやることになり、私はチシャネコ役として参加しました。3回の公演予定でしたが、好評につき2回追加公演を行うほどの大盛況でした。その他にも、中学の宗教の授業に参加して日本文化を紹介したり、小学校に訪問して折り紙や簡単な日本語を教えたりもしました。学校最後の日には、スピーチをし、その年に活動的に行動していた人としてStipendi(賞金)をいただきました。

* ホストロータリークラブ*

ペタヤベシロータリークラブは出来てからまだ10年経っていない、割と新しいクラブでした。留学生自体がまず5年ぶりで、しかもアジアないし日本からの留学生は私が初めてということで、最初は、責任重大だなという思いでした。私が留学しているときの会長Pirjoは女性の方で、とても気さくな人でした。カウンセラーのAnjaは学校の先生で、平日はほとんど会っていました。YEOの役員のEsaもいつも私のことを気にかけてくれていました。例会は毎週水曜日で、たまたま私の誕生日が水曜日だったので、
この日はロータリーで誕生日パーティを催していただきました。4月にはお茶会、7月にはお別れパーティも開いていただきました。

* 国や町の様子*

私の住んでいたペタヤベシは、人口3600人の小さな町で、中心にはスーパー、教会、ガソリンスタンド、学校など必要最低限のものしかありません。町から少しでも離れると、あたりは林か牧草地、湖しかない田舎町です。こんな狭い地域なので、みんながみんなのことを知っているようでした。フィンランドといえばサウナ、サンタさんなどで有名ですが、最近では、教育の面で高い注目を浴びていると思います。実際、フィンランド人の語学力は、世界でもトップレベルのものだと言えると思います。小学3年生から英語を勉強し始め、高学年になるとドイツ語なども選択可能になり、中学からはもうひとつの公用語であるスウェーデン語も勉強し始めます。高校ではフランス語やスペイン語も選択可能になってきます。またフィンランドは、公的施設が整っていることでも知られています。税金は高いですが、小学校から大学までの費用はかからないし、18歳までの子供にはもれなく援助金が支払われています。大学に通う人たちのためにも援助金が出ています。フィンランドでは18歳になると基本的に自立すると考えられていますが、実際にそうできるのは国がそういう状態に整っているからなんだなと感心しました。

* 後輩へ*

フィンランドはとても治安のいい国です。私が住んでいるときも、特に目立った事件はありませんでした。また、日本人にとても友好的で、日本の文化に興味を持っている人がたくさんいます。行く前にはぜひ、むこうの人たちに日本の文化を広められるように少し勉強して行ってください。

* 将来の夢・希望*

やりたいことはたくさんありますが、まだはっきりとした未来像は見えていません。大学では、世界への視野を広げるとともに、日本の文化なども勉強したと思っています。できれば、もう1度フィンランドに行って、もっと専門的にフィンランド語学・文法を身に着けたいとも思っています。また、小さいころから興味のあった手話もいつか勉強したいです。世界のためになることを、人々の役に立つようなことをしたいのですが、なにが自分に出来るのかがまだわからないので、それを少しずつ見つけて行くことを今後の目標としていきたいと思います。

*感想*

この留学で、私は言葉よりも大切なものに気がつきました。11月に地元の小学校へ訪問した時、私はまだフィンランド語がしゃべれませんでした。前日、4時間かけて全児童と先生たちに折鶴を折りました。外人に日本のことを紹介するなんて、めったにないことで、行くことが決まった時は大喜びでした。でも自分はもちろん先生ではないので、当日になると好奇心より不安が勝っていました。案の定、子供たちの言っていることはほとんどわからないし、自分も何を喋ったらいいのかわからず、てんてこ舞いでした。でも先生にヘルプしてもらいながら、一生懸命折り紙を教えようとしました。彼らもそれに答えるように一生懸命折っているのを見て、言葉だけじゃないんだなと感じました。それは子供たちだけに限らず、大人でも私が身振り手振り話をすると、一緒になって身振り手振り話をしていました。1番大事なことは、表情で表すことだったのです。私は前から感情が顔に表れやすいほうでしたが、1年を経て、前にもまして表情が豊かになったと、学校の先生や友達に言われました。この1年間で得たものはすべてかけがえのないもので、私を成長させる大きな要因になったと思います。言語を習得できただけでなく、世界に対する視野も広がりました。これからはもっともっと視野をひろげ、社会の役に立っていきたいです。最後に、私にこのような大きなチャンスを与えてくださった、ロータリーのみなさま、両親、学校の先生方に感謝いたします。本当にありがとうございました。


                       06-07 フィンランド派遣 Y.T

メキシコ

はじめに

 みなさんこんにちは!!私は、2005年8月2日から2006年6月26日まで、メキシコ合衆国の南西に位置します、タバスコ州の州都『ビジャエルモサ』というところに交換留学をさせていただきました。

 私の希望国は、やはり英語圏内の国ばかりでした。勉強不足だったため他の国に目が全くいってなく、よく聞くカナダ・オーストラリア・アメリカの留学などしか、自分の留学生活の想像がつかなかったのでしょう。しかし、ローテックスのみなさんの話を聞いていくうちに他の国にも興味を持ち始めていました。   そして、派遣国発表の日、『メキシコ』と言われたときの私の状況は、どこにあるの?何語なんだ??と疑問ばかりが頭に浮かびました。希望国と全く違う派遣先だったにもかかわらず、そこには何一つ疑問を持たず落ち込むどころか、すごくワクワクしました。それから、メキシコの事をある程度調べ飛び立ったのです。



メキシコ

 メキシコは、日本の約5倍の面積がありながらも、日本の次位の人口です。なので、市外にでると家や店など立ち並んでなく、土と低い木が立ち並んでいるようなところが続きます。

 メキシコは“暑い”というイメージがあると思いますが、北部の冬では雪が少しパラつくほど寒くなるそうです。なので、上着は必需品です!!!暑い地域でも、店のなかなどはクーラーですごく寒いですしね!!!私が住んでいたTABASCO州は、メキシコで一番蒸し暑いと有名なところで、真夏には40℃以上を示すほどです。日本に比べたら蒸し暑くないですけど、他の留学生はとても大変みたいでした。 町にはたくさんの木が並んでいて、日陰を作ってくれるという、とても大事な存在です。

 メキシコ人はとても陽気な方が多く、みんなすごく温かい人たちです。いつもハグをしてきたり、あいさつはほっぺとぽっぺでキスです。みんなに“日本人にも教えなきゃね”とよく言われました。(笑)

しかし貧富の差もあり、ぽろぽろの服を着て、市街でお菓子などを売っている人、靴磨きをしている人、信号などで止まった車の窓を拭いてチップをもらう人・物を売っている人などがたくさんいます。小さな子供から老人まで様々です。とても考えさせられます。

 

ホストファミリー

私は、3つのロータリアンのファミリーにお世話になりました。

 ~第1ホストファミリー~   Toledoファミリー (ママ・姉21・妹16)

8月から11月までの4ヶ月間お世話になりました。

ママは日曜日以外は毎日仕事をしていて、日曜日は大学に通っているというとても忙しいママでした。妹は、8月の終わりからロータリーでベルギーへ派遣しました。約1ヶ月間、毎日一緒にいていろんな所へ連れてってくれ、言葉が全く話せないのに楽しい毎日でした。なので、妹がいなくなってからの私は、悩みがどっと増えた気がします。。。

姉は、4年前に同じくベルギーへ派遣していて、今は大学でフランス語の先生をしていました。しかし、もう結婚をしていて、妹がベルギーへ発った2日後に赤ちゃんを産んだのです!!私はメキシコでおばになりました!!!日本にいるときでさえ間近に赤ちゃんなどいなかったのに、生まれて1日しかたっていない赤ちゃんを見ることができ、とても貴重な体験をしました。今まで姉は夫と夫の実家に住んでいたのですが、その日からうちで住むようになったのです。しかし、私は正直とても居心地が悪かったです。食事の時、まだ会話など全くわからない時期、たびたび私に注目がくると、姉は鬼教師のように私にスペイン語を追及してきました。私はそれをとても恐れてしまっていたのです。朝、晩はほぼ一人で食事をしていたのですが、寂しさなど感じずおびえずにご飯が食べれてうれしかったです。これでは、いけなかったのですが・・・良くお手伝いさんと話しをしていました。この家族は親戚同士とても仲がよく週に3・4回は誰かが食事に来たり、お茶をしにきていました。ママとは、ステイをしていたときは、あんまり話はしなかったけれど、何ヶ月をたってからいろんな話をするようになりました。とても、心が温かいママでした。



 ~第2ファミリー~   Natalファミリー (パパ・ママ・兄19・妹16・弟12)

12月から3月までの4ヶ月お世話になりました。

この家はとってもお金持ちで、とっても大きな家やゴルフができそうなくらいの庭、プール・池などがありました。しかし、少し町外れに住んでいて、移動は必ず家族の誰かに送り迎えをしてもらいました。

兄は2年前にブラジルに行っていて、妹はポーランドへ派遣していました。この4ヶ月は毎月のようにホストクラブの企画や地区の企画で留学生達と旅行をしていました。ママはとても話好きて、しかも仕事もしていなかったので随分スペイン語が上達したと思います。そして、今思うと一番ママって思えたママでした。しかし、パパは“いつもミナは無口だ・・”と言ったり、何か話しをしていても、 “ミナは理解できないか・・”などと、とても落ち込むようなことをいつも言われ、パパの前では特に無口になってしまいました。弟には、好かれていて良く何かしようと誘ってくれましたが、とても幼い考えをもっていたのでいろいろと大変でした。住みつきのお手伝いさんが何でもやってくれたりと、生活には何一つ不自由しませんでした。毎週日曜日は、家族で出かけていました。



 ~第3ホストファミリー~   Soniファミリー  (パパ・ママ・弟16、15)

最初の1週間と4月から最後までお世話になりました。

メキシコに着いた日から約1週間、第1ファミリーが違う州に居たため、お世話になりました。

第2ファミリーの家と違って、学校からすごく家が近かったり、友達の家が近かったりと、毎日のように友達の家に遊びに行ったり来たりとしていました。しかし、家にいるときは家族全員が自分の部屋にいたり、私がママに用事があるときにママの部屋に行っても、出てきて部屋の外で話たりと、家族の一員のように思えずここにきてホームシックというのを体験しました。一瞬でしたが・・・友達がいたので救われましたが!!!家族とのコミュニケーションは食事の時ぐらいで、この家だけはみんなで食事をするのではなく、好きなときに食べるようになっていました。あとこの家族も毎週日曜日にみんなで食事をしに出かけていました。弟2人とも日本語の教室に通っていて、日本に興味を持っている弟たちで私よりも日本が詳しい気がしました。(笑)パパは、毎日朝早くから遅くまで仕事をしていて、家にいてもずっと部屋にいたり野球をしにいったりと日曜日の外での食事以外は全くかかわっていませんでした。



どの家も自分の部屋を用意してくれ、第2・第3の家では自分の部屋にシャワーとトイレまでついていました。最初に浴槽がないのにビックリしたのですが・・・(笑)

全く違った3つのファミリーでしたが、どれだけ自分の家が居心地いいのかがわかりました。(笑)あと、メキシコのロータリアンのファミリーということで、お手伝いさんがどの家にもいました。なるべき自分のことは自分でやっていましたが、すごくお世話になりました。

メキシコの家族は週に1度はみんなで食事に行くなど、家族の時間を大切にしていました。そして、家族愛をとても感じました。



学      校

大学しかなかったこの学校は2年前から高校が新しくでき、まだ3年生がない新しい私立学校でした。

さすが南米!!1日目からたくさんの友達ができました。クラスの子から始まり、どんどん友達が友達に紹介していくといったように、この学校では一躍有名になったと思います。(笑)しかし、1日でみんなの名前を覚えられるどころか、みんなの顔が同じように見えてしまい大変でした。初めてたくさんの人とふれあったので・・・次の日からは、いろんなところから『MINA!!MINA!!』っと呼ばれ、うれしかったけど、誰が誰だか・・・・(笑)

そして、前期は2年生のクラスで、後期は1年生のクラスに入ったので、本当に幅広い人たちと友達になれました。しかし、私は少し息苦しく思ったときもあります。私が住んでいたところは、日系人が全くいなくみんな興味本意で私に近寄ってくる人がほとんどで、いつも特別扱いされていたように思えてしまいました。そこで、ひと壁作ってしまった自分に少し後悔です。もっと自分をアピールできたらなと今では思っています。でもこの学校は、生徒はもちろん先生方もすごく心の温かい人がたくさんいて、いつも『MINA元気?』と聞いてきてくれる先生もいて、とっても好きな学校です。逆に、いつもバカにしてくる生徒もいましたが・・それはしょうがない!!



ホストクラブ・2400地区

私のホストクラブ『TABASCO RC』は、約20人の女性だけが集まったクラブで、私含めて6人の留学生がいました。毎週木曜日の朝の9時ぐらいに始まります。9時“ぐらい”というのはみんな時間にルーズで何時に始まるのかわからないのです。(笑)これも南米の特徴だと思います。すべてがそうではないですよ!!!私たち留学生は月1回、月の初めの例会に参加し、毎月お小遣いをもらっていました。私のクラブは、メキシコのいろんな行事があるごとにパーティーを開いてくれました。そして、12月と2月に他の州への旅行を企画してくれ、同じクラブの留学生6人と他のクラブの仲の良い留学生を誘っていきました。その旅行先のロータリアンの家にホームステイを2人くらいでし、毎日だいたい留学生みんなでいろんなところに行き、1日中みんなでいることができました。なので、12月の初めての旅行をしたときに、みんなとすっごく仲良くなれました。そして、スペイン語がいっきに上達してきたと思います。

4200地区はメキシコの南西に位置する6つの州が集まってできています。約60人の留学生がいました。しかし、その中でも日本人は一人で、アジア系も始めはいませんでした。2ヶ月に1度くらいで地区の集まりがありました。そして、2回地区での旅行がありました。

1月に2週間の大きな旅行があり、約50人の留学生でメキシコの中央部分をバスで回りました。私はこの旅行をすごく楽しみにしていたのですが、嫌な思い出になってしまいました。

やっと仲の良くなった友達が出来たのですが、みんなその国同士の言葉で話し始めてしまったのです。私はまだ自分のスペイン語に自信が全くなく、自分からいろんなことを切り出すこともできず、みんなが楽しくワイワイしているところを見ていることしかできませんでした。それがトラウマとなり帰ってきてからも、留学生と距離をおくようになってしまいました。

しかし、クラブでの話し合いのときに、私はみんなに思っていることをすべて打ち明けました。そしたら、みんなはちゃんと理解をしてくれました。それから、時には喧嘩もするけれど、言いたいことはみんな言い合えたし、誰かが落ち込んでいるとみんなで助けたりと、一生のうちにこんなに分かち合える友達ができるだろうかというほど、私たちの絆は深くなったと思います。



後輩へのアドバイス

まず、一人で悩まないこと!!!始めは、言葉がわからず言いたいこともいえない時があると思いますが、一人で考えていないで日本にいるあなたを応援している人に頼って下さい。そして、そのうち言葉も話せるようになり、派遣先で必ずあなたを助けてくれる人が現れると思います。

あと、思ったことを伝えましょう!!!これは私にとってとても難しかったことで、何回泣いたことか・・・言わなきゃ伝わりません!!!

そして、存分に楽しんで下さい!!!それが1番です!!!



感      想

メキシコにいた時の自分は、日本にいた時の自分と全く違った自分だったとすごく感じました。始めは、自分の思っていることが言えず、例えば欲しいものはもちろん、自分の自己紹介も危ういなど、赤ちゃん状態でニコニコしていることしかできない自分がいました。最後の方でも、どこに行くにも誰かと一緒に出かけないとママたちは心配していましたし。しっかりしてないように思われたのでしょうか。でも逆に、ただついていけば良いだけだったので楽でしたが・・・(笑)

あと、一番感じたメキシコと日本の違いは、愛情表現の仕方だと思います。例えば、両親は子供を愛していることをしっかり伝えているし、子供たちもそれにこたえ両親をすごく尊敬しているのです。すごく憧れ、見習いたいと思いました。

そして、日本にいたときの生活ではわからなかったことが、この1年でいろんなことに気づかされ、悩まされました。このことで、自分のことがよくわかったし、少し強くなれた気がします。そして、この貴重な体験、出会いを忘れずにしっかり守っていきたいと思います。



最後に、このような貴重な体験をさせてくださった、2770地区の委員会のみなさま、上尾ロータリークラブのみなさま、4200地区のみなさま、TABASCO RCのみなさま、私を支えてくれた方々全ての人に感謝をしています。

ありがとうございました。MUCHAS GRACIAS!!!



                             06-07 メキシコ派遣 M.N

アメリカ、フロリダ

* ホストファミリー

第一ホストファミリー(第三ホストファミリー)はパパ、ママ、大学生のお兄ちゃんの三人家族でした。パパとママは二人とも大学 (University of North Florida) で働いています。パパはホールやゲームルーム、映写室の管理、イベントの監督などを任されていて、ママは大学生のカウンセラーをしていました。お兄ちゃんはノースカロライナ州の大学に行っていたので学校が始まってからはあまり会えませんでした。

ママは元小学校教員で教え方も上手く、ママとパパにはいつもアメリカ史と英語の宿題を手伝ってもらっていました。三角法や解剖生理学の宿題は辞書があれば自力でもできたものの、この二教科だけはつわものでした。私は成績がかかったプロジェクトがあったり、テストが近かったりすると、第二・第四ホストファミリーの家に移ってからも第一ホストファミリーの家に帰ってきて手伝ってもらっていました。それは、ただこのファミリーが大好きだったからではなく、それだけの価値があったからです。

パパが演劇方面で大学のデグリーをもっていて、またパパとママが一緒に演劇をしていたこともあり、ステイ中はジャンルにとらわれず本当にたくさんの映画を観ました。テレビを観るよりも映画を観る率がはるかに高かったと思います。

この家庭はあまり熱心に教会に通いはしませんでしたが、毎週日曜日には近くの老人ホームのようなところで暮らしているおばあちゃんを連れてみんなでランチをしました。毎週は行かなかったものの、私は教会の聖歌隊に入っていました。(貧血を起こしてそのまま体調を1週間ほど崩す前までは・・・。) 体調が悪い時だけでなく、パパがいつも私の体調や体重を気遣ってくれながら、ご飯を作ってくれました。パパの”サーモンのグリル”は本当にスパイスが効いていておいしかったです。ご飯ではありませんが、私のお気に入りはなんといってもパパのブラウニーでした。

朝は、パパに近くの学校のスクールバス乗り場まで車で送ってもらい、スクールバスで学校に通っていました・・・が、パパか私が寝坊をすると学校まで送ってくれました。帰りはまたスクールバスに乗り、家の近所で止まってくれるのでそこから歩きでした。水泳部(一週間ほどでやめましたが)やサッカー部などの練習が放課後にある時は家から一番近くの学校までスクールバスが行ってくれるので、そこまで迎えにきてもらっていました。

第二ホストファミリーはパパ、ママ、二人の大学生のお兄ちゃん、小学生の妹の五人家族でした。パパはたいてい土曜日も働いており、ママは銀行で夜間に働いていました。お兄ちゃん二人も長男はヴァージニア州に次男はマイアミの大学に通っているためサンクス・ギヴィングとクリスマスぐらいしか一緒に過ごせませんでしたが、まるで本当の兄のように接してくれました。長男の恋人は日本人の方で、私が留学した夏に丁度二人で日本に行ってきたところだったのでその時の話なども聞けて日本が少し懐かしくなったりもしました。次男は以前に大阪に短期留学をしていたのですが、私が行ったその年にはロータリーの青少年交換留学プログラムでタイから帰国したばかりの新ローテックスでした。彼は第一ホスト・ブラザーとも親友で、お兄ちゃんたちの中では一番共通する部分も過ごした時間も長かったのでいつも私のことを気にかけてくれていました。まだ小学生の妹は馬が大好きで乗馬がとても上手でした。普段は家の前で近所の子供達と木製の馬にまたがってかけっこをしていましたが、本物の馬の上では幼さも消え本物のカウ・ガールのようでした。また、彼女はダンスを習っていて『ハイスクール・ミュージカル』というミュージカル映画がお気に入りでした。

サンクス・ギヴィングは第二・第四ホストファミリー合同で(第二ホスト・ママと第四ホスト・パパは兄妹です)おじいちゃん、おばあちゃんの家でお手製のディナーとおいしいパンプキン・パイをいただき、クリスマスにはミサに出席してから第二ホスト・パパの実家でクリスマス・パーティーをしました。パパには兄弟が多く、おじいちゃんおばあちゃんには十三人もの孫がいて私もその中の一人にさせてもらいました。

この家庭はパパ側のおじいちゃんおばあちゃんと同じ教会に通っていて、毎週日曜日の朝にはかかさず教会に行きました。私は一・二回程サンデー・スクールに出席し聖書のことを勉強したり、自分の考えを他の生徒と共有したりしました。さらに、パパもママも聖歌隊のメンバーだったので私も仲間に入れてもらいクリスマス・コンサートにまで出演しました。他の聖歌隊のメンバーも皆心の豊かな人ばかりで楽しく、サッカーの練習や試合などがない限り毎週水曜日の聖歌隊の練習にも参加していました。

毎朝ママと(たまに妹と、引っ越してから後ほどは犬も)が私を近くの学校のスクールバス乗り場まで車で送ってくれました。帰りはサッカーの試合がある時はその会場まで迎えに来てくれましたが、大抵は同じように近くの学校まで車で迎えに来てくれました。引っ越してから後ほど現れた犬というのは、元は迷い犬で飼い主が見つかっていないためにとりあえず引き取ったミニチュア・ダックスフンドです。

第四ホストファミリーはパパ、ママ、大学生のお兄ちゃん、ひとつ上の学年で同じ学校に通うお姉ちゃんの四人家族でした。パパは建築家でママはお医者さん、お兄ちゃんはタラハシで大学に通っていました。でもお兄ちゃんが家に帰ってきていたときは地元のコミュニティーカレッジに通うお兄ちゃんの彼女もよく来ていたので、お姉ちゃんは二人いたようなものです。パパはロータリアンで、青少年交換留学の役員でもあったため、私は八人目の留学生でしたがラストホストファミリーをするのは初めてだと言っていました。

お兄ちゃんも、お兄ちゃんの彼女やお姉ちゃんも演劇経験があるので、ここでも私はたくさんの映画を観ました。同じ学校に通っていたお姉ちゃんは学校の演劇部で振付師をしていて、私は二度程公演を見に行きました。お姉ちゃんは演劇・ダンス・音楽をこよなく愛していて、自分の意見を曲げることは滅多になく、わが道を行く人でした。今となってはいい思い出ですし、私も人のことを言えませんが、お姉ちゃんは私が宿題をしていても大声で歌いながら部屋に入ってきたり、自分の部屋と同じくらい私の部屋を散らかしたり、ものすごく時間にルーズだったり・・・と個性的な人なので、一人っ子の私には一緒に生活をするということに慣れるのが一番大変でした。そんなお姉ちゃんに連れられて出会ったのがスイング・ダンスでした。一度言ってからは楽しくてしょうがなく、難しい技にも挑戦しました。スイング・ダンスの魅力はダンスだけでなく、アメリカで五十年代に流行った音楽とも出会えることです。残念ながら日本では有名でないため踊る機会がありませんが、ステップは忘れてしまったらまた覚えなおせば良いし、出会った音楽は世界中どこにいても聞くことができると思います。

ここの家庭でも毎週日曜日の朝に教会に通い、私はサンデー・スクールにも毎週欠かさず出席していました。サンデー・スクールには同じ学校のサッカー部の子もいたのですぐに馴染むことができました。話した内容のほとんどは、映画が公開された『ダ・ヴィンチ・コード』についてでした。日本ですでに和訳された本を読み、英語で書かれた原本を読むのに悪戦苦闘していた私も内容は理解していたのでほっとしたのを覚えています。

朝はお姉ちゃんの運転する車で一緒に登校していました。が・・・前にも言った通り、お姉ちゃんは非常に時間にルーズです。そして、よくものを失くします。帰りはお姉ちゃんと一緒に帰ったり友達に送ってもらったりしました。



* 学校生活について

  私が通っていた学校はマグネット・スクールで、アメリカ国内でトップ・テンに入ったこともあるほどの優秀校でした。分厚いアメリカ史の教科書は使われている単語も難しく、まともに辞書を使うと一ページ読むのに一時間程かかりました。アメリカ史にクラスはAPといって大学での単位も習得できるクラスだったので試験やエッセイも難しいものばかりでした。しかし、日本と違ってただ年代や出来事を暗記するのではなく、何故それが起こったのか、それがどう歴史に影響したのかなどをまず生徒に考えさせ、次に調べさせるという内容だったので、自分で勉強しないかぎり得られるものは無いと思った私は必死に勉強しました。苦手な数学(三角法)も、単語を覚えて、日本人のプライド(?) のために一生懸命勉強し、ほとんどの試験を高得点でパスしました。先生や教科によって留学生に求めるものは違いましたが、授業にもしっかり出席し、ホストママ・パパの助けを借りて提出物や宿題も期限以内に終えることができなくてもきちんとやっていたので、どの先生方も私の努力を評価してくださり良い成績をもらうことができました。

  学校生活で一番印象に残っていることはPep Rally (激例会) です。これは私が始めて参加した行事で、自分の学校でフットボールの試合があるときに短縮授業の後に体育館に全員集まって学年ごとに選手にエールを送る行事です(と言っても叫ぶだけ)。私が行っていた年は二年(Junior)が一番応援を頑張り、バトンを手に入れました。

  ハロウィーンでは日本のゲームキャラクターの衣装をホストブラザーに協力してもらって作り、いわゆるオタク系の友達が増えました。クリスマス・バレンタイン・イースターなど、友達同士でお菓子や小さなプレゼントをお互いにあげて日ごろの感謝を伝えました。他にもホームカミング・ミリタリーボール・プロムなどのダンスパーティーもあり、私はパーティーのたびに新しいドレスを変えました。

  学校のみに言えることではないのですが、留学して初めのうちは相手の話していることは大体理解できたものの受け答えができず、外国語を話すことにコンプレックスを感じていました。日本と違って各授業それぞれの教室へ移動して受けるので一日中一緒にいるクラスメートもいず、第四ホストシスターと会うこともなく、約三週間ほとんど友達ができずに寂しい思いをしました。実際に行ってみるまですぐに友達をつくれると思っていたので日本にいる友達が恋しくてたまりませんでした。日本を発つときに空港で友達がくれた色紙を、読むと泣いてしまうからトランクに入れたままにして、それでもやっぱり夜に部屋で一人になると寂しくて、気づかれないように泣いていました。そんな私にも気がつけば私にもたくさんの友達ができ、特にサッカー部やコーラスの授業は試合や校外でのパフォーマンスもあり、充実した学校生活をおくって帰ってくることができました。



* ホスト・ロータリークラブの様子や私への対応

クラブでは温かく私を迎えてくれました。残念ながらクラブの行事に参加することは きませんでしたが、ウォーター・プロジェクトなど環境汚染改善のための調査などもしていました。

もともと知らされていたクラブ・カウンセラーがとても忙しい方だったらしく、知らない間に第四ホストパパがカウンセラーになっていて驚きましたが、特にカウンセラーにお世話になるような問題もなく無事に一年間を終えることができました。



* 国や町の様子、社会環境あるいは経済環境など

 アメリカに行って一番に思ったことは、食べ物、道路、人、建物など何でも大きいことです。またトヨタ、三菱、日産など日本の車が大半を占めていることにも驚きました。  

ジャクソンヴィルはアメリカ合衆国隣接部の中でもっとも面積が大きい州です。第三十九回スーパーボール(ぴょんぴょん跳ね回るボールではなく、アメリカンフットボールの大会 “Super Bowl”)開催時にできた巨大なフットボール場があります。私の学校主催のホームカミングもプロムも両方ともそのオーテルスタジアムで催されました。オーテルスタジアムのすぐ隣には卒業式の会場にもなったバスケットボール用の体育館があり、他にも周りに野球場やテレビ局などがあります。また、スーパーボール開催のためにダウンタウンに建設されたスカイライン(モノレール)がありますが普段はあまり使われていません。ジャクソンヴィルは道路が入り組んでいて、私がたとえ運転をすることができたとしても、迷ってしまってとても一人では無理だろうと思えるくらい複雑でした。特にダウンタウンではほとんどの交差点で右折や左折が指定されていて、間違って曲がってしまうと同じところをぐるぐると回らないといけなくなります。

人口の多くはダウンタウンではなく、市街地のモールの周辺やビーチの近くに住んでいます。ダウンタウンからビーチやモールまではどれもだいたい車で、三十分くらいで行くことができます。人々が市街地に住んでいて、ホームレスのための施設などもあるため夜にダウンタウンを歩く時は常に大人数で、決して女性だけではいないようにしていました。ただ車で通るだけでも念のため必ず内側からロックをしていました。



* これからその国へ行く後輩へ三つの助言

① 先入観をもたないこと。すべてが映画やドラマのようになるわけではありません。生活をしてくるのはあくまで自分自身であり、そこには自分のことをよく理解してくれている親や友達はいないのです。文化も環境もまったく知らない土地に一人で飛び込んで生きていくには、「日本ではこうなのに・・・」とか、「なんでこうじゃないの?」などと悲観的に考えるのではなく、「へぇ~。そうなのか」、「アメリカではこうするのか」と物事をなるべく受け入れていくほうが良いと思いました。受け入れていくというのも、日本の文化を無視したり、嫌なことでもなんでもしたりするのではなく、ただ純粋に違いを理解し、環境に柔軟に、flexibleに対応できるようにすることだと思います。

② 学校生活について、留学生だからといって何もしないのではなく、自分が日本でしているように、ありのままの自分でいるように心がけて欲しいと思います。たとえ初めのうちは授業や周りのことが理解できなかったとしても、理解する努力をしていれば自然とわかるようになるし、周りの人も手助けをしてくれるようになります。部活動などには友達を増やすという面でも積極的に参加したほうが良いです。たとえ何かやってみたいことがあっても自分が行動を起こさなければ誰もどうすればいいのか教えてはくれないので、掲示物に気をつけたり、同級生や顧問の先生にあらかじめ、たとえまだシーズンでなくともいつから始まるのかなどを聞いておいたりしたほうがいいと思います。

③ 嫌なものは『嫌』、嬉しいことは『嬉しい』、何かをしてもらったら『ありがとう』、そういった当たり前のことを難しい言葉でなくても良いので精一杯相手に伝えることです。よく聞くかもしれませんが、特にアメリカのような国では些細なことでもはっきりと発言するという一見簡単でも難しいことが本当に大切です。



* 私の将来の希望、夢について

  単位が認められず、まだ高校二年生ですが進路を考えるのに他の人よりも時間があることを前向きにとらえ、アメリカの大学と日本の大学の両方を受験しようと思っています。

  高校に入学してからずっと、何か英語を使える職に尽きたいという漠然とした夢しかもっていませんでしたが、留学していた一年間で突然建築に興味を持ち始めました。文型の私が理系に転向することはとても難しいので、夢が叶うかどうかはわかりませんが目の前にあるハードルを一つ一つ精一杯越える努力をするのみです。



* 感想

一年間というのは瞬きをするほどあっという間で、決して楽しいことばかりだったとは言えませんが私の今まで生きてきた十七年間で一番意味のあるものでした。ロータリー6970地区で連れて行ってくれたディズニーワールドやキーウェストではいつも楽しむだけではなく、物理や海洋生物/水汚染について学んだりもしました。ホストファミリーとノース・カロライナ州、コロラド州、ジョージア州、ヴァージニア州にも行きました。学校のコーラスで他の学校でパフォーマンスをしたり、地区大会に出場したり、卒業式に歌ったり、年の終わりにはペンシルバニア州とニューヨーク州へパフォーマンスで行きました。ニューヨークのグラウンド・ゼロで、コーラスのみんなで歌ったとき私は涙をこらえることに必死でした。突然何の前触れもなくそこに現れ、歌いだした私達の前に気がつけばすごい人だかりができていて、涙ぐむ人すらいたのです。

学校のこと、サッカーの試合、ビーチでスキン・ボードをしたこと、友達とモールで試着をしながらファッションショーをしたこと、友達の家に泊まったこと、そういった当たり前のことが今一番恋しく思えます。ホストファミリーや友達に感謝するとともに、このような素晴らしい機会を私に与えてくれた両親、そしてロータリーに感謝しています。ありがとうございました。



                    06-07  アメリカ派遣 K.N

アメリカ、アリゾナ

春日部西RCさんにスポンサーしていただき、D5510のアメリカ・アリゾナ州に派遣させていただきました。自分が派遣されていた場所はアメリカの南西部、カリフォルニア州の東隣で、南はメキシコに接しているアリゾナ州の、州都フェニックスからほど近いFountain Hillsという町です。アリゾナ州は、夏は40℃を超える高温の日がほとんどで、雨は一年間ほとんど降らない乾燥した気候です。Fountain Hillsはあまり大きな町ではなく、静かな、住宅地で、比較的裕福な人が多いようでした。

ホストファミリーは2家庭に、お世話になりました。最初の家庭に6ヶ月お世話になった後、2家庭目に2ヶ月ちょっとお世話になりましたが、その後再び最初の家庭に戻り最後までお世話になりました。第1ホストファミリーは、離婚歴があり、子供2人がもう独立している、一人暮らしのホストマザーだけの家庭でした。第2ホストファミリーも80歳くらいの高齢の一人暮らしのおばあさんで、何十年も留学生のホストマザーの経験があるということでした。2家庭ともホストマザーだけの家族だったので、ホストブラザーやシスターがいたら、また留学生活も違ったものになっていただろうと思います。

通っていたFountainHills高校は生徒数が約1000人の公立校で、体育施設などが充実していて、日本の高校とは規模の違いを感じました。また、生徒は授業ごとに、教室を移動する仕組みであったり、上級生は自分で車を運転して登校したり、昼食を外に食べに行けたり、学校のシステムもずいぶん違いました。英語はなんとか話せるだろうと思っていたのですが、聞く方が、最初は早くてまったくわからず、知っている単語さえもそれまで自分が思っていた発音と違って聞き取れないことが多く、苦労しました。
部活動は、バスケットボール部と野球部に所属していました。日本と違い、部活動は年間を通して行うのではなく、バスケットボールは秋から冬だけで、冬から春にかけては、野球部に入っていました。バスケット部と野球部を通して多くの友人を作るこ
とができました。バスケットの試合で日帰りでバスで遠くまで行くのには、驚きました。隣のカリフォルニア州まで行き、帰ってきたのが、夜中の2時半だったこともありました。野球をやっていたときには、ちょうど、ワールドベースボールクラシックの試合があり、日本が優勝したのをチームの友人やコーチが祝福してくれました。

最後に、これからアメリカに行きたいと思ってる人へのアドバイスとしては、今のうちからできるだけ英語を勉強しておいた方がいいです。自分もアメリカに行く前にトミーさんから「アメリカは英語を話せて当たり前だから、厳しいよ」とアドバイスをいただいたとおり、実際に留学してその言葉を実感しました。そのとおり、そのような厳しい環境に耐えられると自信がある人にはお薦めしたいと思います。また、高校の試験は、たとえ熱があったとしても、とにかく学校へ行って0点でもいいから、試験を絶対に受けた方がいいです。受けないと、あとで面倒なことになります。

この1年間の生活の中は、大変なことや気のめいることも多くありましたが、それらの多くの経験を通して、自分を人間として成長させてくれたと思います。そして国際的な視野も広げることができました。この経験を活かしてこれからは、更に勉強を重
ね、将来、国際的に活躍できるようになるために頑張っていきたいと思います。最後に、この留学において、あらゆる準備をしてくださった青少年交換委員会の方々、スポンサーをしていただき留学中に写真を載せるHPまで作ってくださった春日
部西RCさん、自分の留学に協力してくれた学校と先生方、いろいろとご指導してくださったローテックスの方々、常にサポートしてくれていた両親には本当に感謝しています。有難う御座いました。

                             06-07 アメリカ派遣 R.E