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アメリカ、フロリダ

* ホストファミリー

第一ホストファミリー(第三ホストファミリー)はパパ、ママ、大学生のお兄ちゃんの三人家族でした。パパとママは二人とも大学 (University of North Florida) で働いています。パパはホールやゲームルーム、映写室の管理、イベントの監督などを任されていて、ママは大学生のカウンセラーをしていました。お兄ちゃんはノースカロライナ州の大学に行っていたので学校が始まってからはあまり会えませんでした。

ママは元小学校教員で教え方も上手く、ママとパパにはいつもアメリカ史と英語の宿題を手伝ってもらっていました。三角法や解剖生理学の宿題は辞書があれば自力でもできたものの、この二教科だけはつわものでした。私は成績がかかったプロジェクトがあったり、テストが近かったりすると、第二・第四ホストファミリーの家に移ってからも第一ホストファミリーの家に帰ってきて手伝ってもらっていました。それは、ただこのファミリーが大好きだったからではなく、それだけの価値があったからです。

パパが演劇方面で大学のデグリーをもっていて、またパパとママが一緒に演劇をしていたこともあり、ステイ中はジャンルにとらわれず本当にたくさんの映画を観ました。テレビを観るよりも映画を観る率がはるかに高かったと思います。

この家庭はあまり熱心に教会に通いはしませんでしたが、毎週日曜日には近くの老人ホームのようなところで暮らしているおばあちゃんを連れてみんなでランチをしました。毎週は行かなかったものの、私は教会の聖歌隊に入っていました。(貧血を起こしてそのまま体調を1週間ほど崩す前までは・・・。) 体調が悪い時だけでなく、パパがいつも私の体調や体重を気遣ってくれながら、ご飯を作ってくれました。パパの”サーモンのグリル”は本当にスパイスが効いていておいしかったです。ご飯ではありませんが、私のお気に入りはなんといってもパパのブラウニーでした。

朝は、パパに近くの学校のスクールバス乗り場まで車で送ってもらい、スクールバスで学校に通っていました・・・が、パパか私が寝坊をすると学校まで送ってくれました。帰りはまたスクールバスに乗り、家の近所で止まってくれるのでそこから歩きでした。水泳部(一週間ほどでやめましたが)やサッカー部などの練習が放課後にある時は家から一番近くの学校までスクールバスが行ってくれるので、そこまで迎えにきてもらっていました。

第二ホストファミリーはパパ、ママ、二人の大学生のお兄ちゃん、小学生の妹の五人家族でした。パパはたいてい土曜日も働いており、ママは銀行で夜間に働いていました。お兄ちゃん二人も長男はヴァージニア州に次男はマイアミの大学に通っているためサンクス・ギヴィングとクリスマスぐらいしか一緒に過ごせませんでしたが、まるで本当の兄のように接してくれました。長男の恋人は日本人の方で、私が留学した夏に丁度二人で日本に行ってきたところだったのでその時の話なども聞けて日本が少し懐かしくなったりもしました。次男は以前に大阪に短期留学をしていたのですが、私が行ったその年にはロータリーの青少年交換留学プログラムでタイから帰国したばかりの新ローテックスでした。彼は第一ホスト・ブラザーとも親友で、お兄ちゃんたちの中では一番共通する部分も過ごした時間も長かったのでいつも私のことを気にかけてくれていました。まだ小学生の妹は馬が大好きで乗馬がとても上手でした。普段は家の前で近所の子供達と木製の馬にまたがってかけっこをしていましたが、本物の馬の上では幼さも消え本物のカウ・ガールのようでした。また、彼女はダンスを習っていて『ハイスクール・ミュージカル』というミュージカル映画がお気に入りでした。

サンクス・ギヴィングは第二・第四ホストファミリー合同で(第二ホスト・ママと第四ホスト・パパは兄妹です)おじいちゃん、おばあちゃんの家でお手製のディナーとおいしいパンプキン・パイをいただき、クリスマスにはミサに出席してから第二ホスト・パパの実家でクリスマス・パーティーをしました。パパには兄弟が多く、おじいちゃんおばあちゃんには十三人もの孫がいて私もその中の一人にさせてもらいました。

この家庭はパパ側のおじいちゃんおばあちゃんと同じ教会に通っていて、毎週日曜日の朝にはかかさず教会に行きました。私は一・二回程サンデー・スクールに出席し聖書のことを勉強したり、自分の考えを他の生徒と共有したりしました。さらに、パパもママも聖歌隊のメンバーだったので私も仲間に入れてもらいクリスマス・コンサートにまで出演しました。他の聖歌隊のメンバーも皆心の豊かな人ばかりで楽しく、サッカーの練習や試合などがない限り毎週水曜日の聖歌隊の練習にも参加していました。

毎朝ママと(たまに妹と、引っ越してから後ほどは犬も)が私を近くの学校のスクールバス乗り場まで車で送ってくれました。帰りはサッカーの試合がある時はその会場まで迎えに来てくれましたが、大抵は同じように近くの学校まで車で迎えに来てくれました。引っ越してから後ほど現れた犬というのは、元は迷い犬で飼い主が見つかっていないためにとりあえず引き取ったミニチュア・ダックスフンドです。

第四ホストファミリーはパパ、ママ、大学生のお兄ちゃん、ひとつ上の学年で同じ学校に通うお姉ちゃんの四人家族でした。パパは建築家でママはお医者さん、お兄ちゃんはタラハシで大学に通っていました。でもお兄ちゃんが家に帰ってきていたときは地元のコミュニティーカレッジに通うお兄ちゃんの彼女もよく来ていたので、お姉ちゃんは二人いたようなものです。パパはロータリアンで、青少年交換留学の役員でもあったため、私は八人目の留学生でしたがラストホストファミリーをするのは初めてだと言っていました。

お兄ちゃんも、お兄ちゃんの彼女やお姉ちゃんも演劇経験があるので、ここでも私はたくさんの映画を観ました。同じ学校に通っていたお姉ちゃんは学校の演劇部で振付師をしていて、私は二度程公演を見に行きました。お姉ちゃんは演劇・ダンス・音楽をこよなく愛していて、自分の意見を曲げることは滅多になく、わが道を行く人でした。今となってはいい思い出ですし、私も人のことを言えませんが、お姉ちゃんは私が宿題をしていても大声で歌いながら部屋に入ってきたり、自分の部屋と同じくらい私の部屋を散らかしたり、ものすごく時間にルーズだったり・・・と個性的な人なので、一人っ子の私には一緒に生活をするということに慣れるのが一番大変でした。そんなお姉ちゃんに連れられて出会ったのがスイング・ダンスでした。一度言ってからは楽しくてしょうがなく、難しい技にも挑戦しました。スイング・ダンスの魅力はダンスだけでなく、アメリカで五十年代に流行った音楽とも出会えることです。残念ながら日本では有名でないため踊る機会がありませんが、ステップは忘れてしまったらまた覚えなおせば良いし、出会った音楽は世界中どこにいても聞くことができると思います。

ここの家庭でも毎週日曜日の朝に教会に通い、私はサンデー・スクールにも毎週欠かさず出席していました。サンデー・スクールには同じ学校のサッカー部の子もいたのですぐに馴染むことができました。話した内容のほとんどは、映画が公開された『ダ・ヴィンチ・コード』についてでした。日本ですでに和訳された本を読み、英語で書かれた原本を読むのに悪戦苦闘していた私も内容は理解していたのでほっとしたのを覚えています。

朝はお姉ちゃんの運転する車で一緒に登校していました。が・・・前にも言った通り、お姉ちゃんは非常に時間にルーズです。そして、よくものを失くします。帰りはお姉ちゃんと一緒に帰ったり友達に送ってもらったりしました。



* 学校生活について

  私が通っていた学校はマグネット・スクールで、アメリカ国内でトップ・テンに入ったこともあるほどの優秀校でした。分厚いアメリカ史の教科書は使われている単語も難しく、まともに辞書を使うと一ページ読むのに一時間程かかりました。アメリカ史にクラスはAPといって大学での単位も習得できるクラスだったので試験やエッセイも難しいものばかりでした。しかし、日本と違ってただ年代や出来事を暗記するのではなく、何故それが起こったのか、それがどう歴史に影響したのかなどをまず生徒に考えさせ、次に調べさせるという内容だったので、自分で勉強しないかぎり得られるものは無いと思った私は必死に勉強しました。苦手な数学(三角法)も、単語を覚えて、日本人のプライド(?) のために一生懸命勉強し、ほとんどの試験を高得点でパスしました。先生や教科によって留学生に求めるものは違いましたが、授業にもしっかり出席し、ホストママ・パパの助けを借りて提出物や宿題も期限以内に終えることができなくてもきちんとやっていたので、どの先生方も私の努力を評価してくださり良い成績をもらうことができました。

  学校生活で一番印象に残っていることはPep Rally (激例会) です。これは私が始めて参加した行事で、自分の学校でフットボールの試合があるときに短縮授業の後に体育館に全員集まって学年ごとに選手にエールを送る行事です(と言っても叫ぶだけ)。私が行っていた年は二年(Junior)が一番応援を頑張り、バトンを手に入れました。

  ハロウィーンでは日本のゲームキャラクターの衣装をホストブラザーに協力してもらって作り、いわゆるオタク系の友達が増えました。クリスマス・バレンタイン・イースターなど、友達同士でお菓子や小さなプレゼントをお互いにあげて日ごろの感謝を伝えました。他にもホームカミング・ミリタリーボール・プロムなどのダンスパーティーもあり、私はパーティーのたびに新しいドレスを変えました。

  学校のみに言えることではないのですが、留学して初めのうちは相手の話していることは大体理解できたものの受け答えができず、外国語を話すことにコンプレックスを感じていました。日本と違って各授業それぞれの教室へ移動して受けるので一日中一緒にいるクラスメートもいず、第四ホストシスターと会うこともなく、約三週間ほとんど友達ができずに寂しい思いをしました。実際に行ってみるまですぐに友達をつくれると思っていたので日本にいる友達が恋しくてたまりませんでした。日本を発つときに空港で友達がくれた色紙を、読むと泣いてしまうからトランクに入れたままにして、それでもやっぱり夜に部屋で一人になると寂しくて、気づかれないように泣いていました。そんな私にも気がつけば私にもたくさんの友達ができ、特にサッカー部やコーラスの授業は試合や校外でのパフォーマンスもあり、充実した学校生活をおくって帰ってくることができました。



* ホスト・ロータリークラブの様子や私への対応

クラブでは温かく私を迎えてくれました。残念ながらクラブの行事に参加することは きませんでしたが、ウォーター・プロジェクトなど環境汚染改善のための調査などもしていました。

もともと知らされていたクラブ・カウンセラーがとても忙しい方だったらしく、知らない間に第四ホストパパがカウンセラーになっていて驚きましたが、特にカウンセラーにお世話になるような問題もなく無事に一年間を終えることができました。



* 国や町の様子、社会環境あるいは経済環境など

 アメリカに行って一番に思ったことは、食べ物、道路、人、建物など何でも大きいことです。またトヨタ、三菱、日産など日本の車が大半を占めていることにも驚きました。  

ジャクソンヴィルはアメリカ合衆国隣接部の中でもっとも面積が大きい州です。第三十九回スーパーボール(ぴょんぴょん跳ね回るボールではなく、アメリカンフットボールの大会 “Super Bowl”)開催時にできた巨大なフットボール場があります。私の学校主催のホームカミングもプロムも両方ともそのオーテルスタジアムで催されました。オーテルスタジアムのすぐ隣には卒業式の会場にもなったバスケットボール用の体育館があり、他にも周りに野球場やテレビ局などがあります。また、スーパーボール開催のためにダウンタウンに建設されたスカイライン(モノレール)がありますが普段はあまり使われていません。ジャクソンヴィルは道路が入り組んでいて、私がたとえ運転をすることができたとしても、迷ってしまってとても一人では無理だろうと思えるくらい複雑でした。特にダウンタウンではほとんどの交差点で右折や左折が指定されていて、間違って曲がってしまうと同じところをぐるぐると回らないといけなくなります。

人口の多くはダウンタウンではなく、市街地のモールの周辺やビーチの近くに住んでいます。ダウンタウンからビーチやモールまではどれもだいたい車で、三十分くらいで行くことができます。人々が市街地に住んでいて、ホームレスのための施設などもあるため夜にダウンタウンを歩く時は常に大人数で、決して女性だけではいないようにしていました。ただ車で通るだけでも念のため必ず内側からロックをしていました。



* これからその国へ行く後輩へ三つの助言

① 先入観をもたないこと。すべてが映画やドラマのようになるわけではありません。生活をしてくるのはあくまで自分自身であり、そこには自分のことをよく理解してくれている親や友達はいないのです。文化も環境もまったく知らない土地に一人で飛び込んで生きていくには、「日本ではこうなのに・・・」とか、「なんでこうじゃないの?」などと悲観的に考えるのではなく、「へぇ~。そうなのか」、「アメリカではこうするのか」と物事をなるべく受け入れていくほうが良いと思いました。受け入れていくというのも、日本の文化を無視したり、嫌なことでもなんでもしたりするのではなく、ただ純粋に違いを理解し、環境に柔軟に、flexibleに対応できるようにすることだと思います。

② 学校生活について、留学生だからといって何もしないのではなく、自分が日本でしているように、ありのままの自分でいるように心がけて欲しいと思います。たとえ初めのうちは授業や周りのことが理解できなかったとしても、理解する努力をしていれば自然とわかるようになるし、周りの人も手助けをしてくれるようになります。部活動などには友達を増やすという面でも積極的に参加したほうが良いです。たとえ何かやってみたいことがあっても自分が行動を起こさなければ誰もどうすればいいのか教えてはくれないので、掲示物に気をつけたり、同級生や顧問の先生にあらかじめ、たとえまだシーズンでなくともいつから始まるのかなどを聞いておいたりしたほうがいいと思います。

③ 嫌なものは『嫌』、嬉しいことは『嬉しい』、何かをしてもらったら『ありがとう』、そういった当たり前のことを難しい言葉でなくても良いので精一杯相手に伝えることです。よく聞くかもしれませんが、特にアメリカのような国では些細なことでもはっきりと発言するという一見簡単でも難しいことが本当に大切です。



* 私の将来の希望、夢について

  単位が認められず、まだ高校二年生ですが進路を考えるのに他の人よりも時間があることを前向きにとらえ、アメリカの大学と日本の大学の両方を受験しようと思っています。

  高校に入学してからずっと、何か英語を使える職に尽きたいという漠然とした夢しかもっていませんでしたが、留学していた一年間で突然建築に興味を持ち始めました。文型の私が理系に転向することはとても難しいので、夢が叶うかどうかはわかりませんが目の前にあるハードルを一つ一つ精一杯越える努力をするのみです。



* 感想

一年間というのは瞬きをするほどあっという間で、決して楽しいことばかりだったとは言えませんが私の今まで生きてきた十七年間で一番意味のあるものでした。ロータリー6970地区で連れて行ってくれたディズニーワールドやキーウェストではいつも楽しむだけではなく、物理や海洋生物/水汚染について学んだりもしました。ホストファミリーとノース・カロライナ州、コロラド州、ジョージア州、ヴァージニア州にも行きました。学校のコーラスで他の学校でパフォーマンスをしたり、地区大会に出場したり、卒業式に歌ったり、年の終わりにはペンシルバニア州とニューヨーク州へパフォーマンスで行きました。ニューヨークのグラウンド・ゼロで、コーラスのみんなで歌ったとき私は涙をこらえることに必死でした。突然何の前触れもなくそこに現れ、歌いだした私達の前に気がつけばすごい人だかりができていて、涙ぐむ人すらいたのです。

学校のこと、サッカーの試合、ビーチでスキン・ボードをしたこと、友達とモールで試着をしながらファッションショーをしたこと、友達の家に泊まったこと、そういった当たり前のことが今一番恋しく思えます。ホストファミリーや友達に感謝するとともに、このような素晴らしい機会を私に与えてくれた両親、そしてロータリーに感謝しています。ありがとうございました。



                    06-07  アメリカ派遣 K.N